聖人(親鸞)東関の堺を出でて、華城の路におもむきましましけり。ある日晩陰におよんで箱根の嶮阻にかかりつつ、はるかに行客の蹤を送りて、やうやく人屋の枢にちかづくに、夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。ときに聖人歩み寄りつつ案内したまふに、まことに齢傾きたる翁のうるはしく装束したるが、いとこととなく出であひたてまつりていふやう、「社廟ちかき所のならひ、巫どもの終夜あそびしはんべるに、翁もまじはりつるが、いまなんいささか仮寝はんべるとおもふほどに、夢にもあらず、うつつにもあらで、権現仰せられていはく、〈ただいまわれ尊敬をいたすべき客人、この路を過ぎたまふべきことあり、かならず慇懃の忠節を抽んで、ことに丁寧の饗応をまうくべし〉と云々。示現いまだ覚めをはらざるに、貴僧忽爾として影向したまへり。なんぞただ人にましまさん。神勅これ炳焉なり、感応もつとも恭敬すべし」といひて、尊重屈請したてまつりて、さまざまに飯食を粧ひ、いろいろに珍味を調へけり。
聖人(親鸞)故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の棲も跡をとどむるに懶しとて、扶風馮翊ところどころに移住したまひき。五条西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ。
このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり。そのころ常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓を信じて、もつぱらふたごころなかりき。しかるにあるとき、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、仰せられてのたまはく、「それ聖教万差なり、いづれも機に相応すれば巨益あり。ただし末法の今の時、聖道門の修行においては成ずべからず。すなはち〈我末法時中億々衆生 起行修道未有一人得者〉(安楽集・上)といひ、〈唯有浄土一門可通入路〉(同・上)と云々。これみな経・釈の明文、如来の金言なり。しかるにいま唯有浄土の真説について、かたじけなくかの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私なし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなはち三経に隠顕ありといへども、文といひ義といひ、ともにもつてあきらかなるをや。『大経』の三輩にも一向とすすめて、流通にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品にもしばらく三心と説きて、これまた阿難に付属す、『小経』の一心つひに諸仏これを証誠す。これによりて論主(天親)一心と判じ、和尚(善導)一向と釈す。
しかればすなはち、いづれの文によるとも一向専念の義を立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなはちいまの教主(阿弥陀仏)なり。かるがゆゑに、とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、和光の垂迹を留めたまふ。垂迹を留むる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば本地の誓願を信じて一向に念仏をこととせん輩、公務にもしたがひ、領主にも駈仕して、その霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、さらに自心の発起するところにあらず。しかれば垂迹において内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。ただ本地の誓約にまかすべし、あなかしこ、あなかしこ。神威をかろしむるにあらず、ゆめゆめ冥眦をめぐらしたまふべからず」と云々。
これによりて平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし。ただ常没の凡情にしたがひて、さらに不浄をも刷ふことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顛沛に師教をまもるに、はたして無為に参着の夜、件の男夢に告げていはく、証誠殿の扉を排きて、衣冠ただしき俗人仰せられていはく、「なんぢ、なんぞわれを忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」と。そのときかの俗人に対座して、聖人忽爾としてまみえたまふ。その詞にのたまはく、「かれは善信(親鸞)が訓によりて念仏するものなり」と云々。ここに俗人笏をただしくして、ことに敬屈の礼を著しつつ、かさねて述ぶるところなしとみるほどに、夢さめをはりぬ。おほよそ奇異のおもひをなすこと、いふべからず。下向ののち、貴坊にまゐりて、くはしくこの旨を申すに、聖人「そのことなり」とのたまふ。これまた不思議のことなりかし。
聖人(親鸞)弘長二歳[壬戌]仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日[午時]頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。ときに頽齢九旬にみちたまふ。禅房は長安馮翊の辺[押小路の南、万里小路より東]なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。
文永九年冬のころ、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、おなじき麓よりなほ西、吉水の北の辺に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、影像を安ず。このときに当りて、聖人(親鸞)相伝の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます盛りなること、すこぶる在世の昔に超えたり。すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して、幾千万といふことをしらず。その稟教をおもくしてかの報謝を抽んづる輩、緇素・老少、面々に歩みを運んで年々廟堂に詣す。おほよそ聖人在生のあひだ、奇特これおほしといへども羅縷に遑あらず。しかしながらこれを略するところなり。
[右縁起図画の志、ひとへに知恩報徳のためにして戯論狂言のためにあらず。あまつさへまた紫毫を染めて翰林を拾ふ。その体もつとも拙し、その詞これいやし。冥に付け顕に付け、痛みあり恥あり。しかりといへども、ただ後見賢者の取捨を憑みて、当時愚案の 謬を顧みることなきならんのみ。]
[時に永仁第三の暦、応鐘中旬第二天、晡時に至りて草書の篇を終へをはりぬ。] [画工 法眼浄賀 号康楽寺]
[暦応二歳己卯四月二十四日、ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。先年愚筆ののち、一本所持のところ、世上に闘乱のあひだ炎上の刻、焼失し行方知れず。しかるにいま慮らず荒本を得て記し、これを留むるものなり。]
[康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。]
[桑門 釈宗昭]
[画工 大法師宗舜 康楽寺弟子]