浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。これ空師(源空)の所為なりとて、たちまちに罪科せらるべきよし、南北の碩才憤りまうしけり。『顕化身土文類』の六にいはく、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[諱尊成、後鳥羽院と号す]今上[諱為仁、土御門院と号す]聖暦、承元丁卯歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下法に背き義に違し、忿りをなし怨を結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め、姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」と云々。空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 [幡多] 鸞聖人(親鸞)罪名藤井善信、配所越後国 [国府] このほか門徒、死罪流罪みなこれを略す。皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごとく禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。
聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。幽棲を占むといへども道俗あとをたづね、蓬戸を閉づといへども貴賤ちまたにあふる。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。このとき聖人仰せられてのたまはく、「救世菩薩の告命を受けしいにしへの夢、すでにいま符合せり」と。
聖人(親鸞)常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし。しかるに一人の僧[山臥と云々]ありて、ややもすれば仏法に怨をなしつつ、結句害心をさしはさみて、聖人をよりよりうかがひたてまつる。聖人板敷山といふ深山をつねに往反したまひけるに、かの山にして度々あひまつといへども、さらにその節をとげず。つらつらことの参差を案ずるに、すこぶる奇特のおもひあり。よつて聖人に謁せんとおもふこころつきて、禅室にゆきて尋ねまうすに、上人左右なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱を述すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房これなり。上人(親鸞)これをつけたまひき。