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出家学道(しゅっけがくどう)

それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠[鎌子内大臣]の玄孫、近衛大将右大臣[贈左大臣]従一位内麿公[後長岡大臣と号し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり]六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。

しかあれば朝廷に仕へて霜雪をも戴き、射山にわしりて栄華をもひらくべかりし人なれども、興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて、九歳の春のころ、阿伯従三位範綱卿[ときに従四位上前若狭守、後白河上皇の近臣なり、上人(親鸞)の養父]前大僧正[慈円慈鎮和尚これなり、法性寺殿御息、月輪殿長兄]の貴坊へあひ具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号す。

それよりこのかた、しばしば南岳・天台の玄風を訪ひて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流を湛へて、ふかく四教円融の義にあきらかなり。

吉水入室(きっすいにゅうしつ)

建仁第一の暦春のころ[上人(親鸞)二十九歳]隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。

六角夢想(ろっかくむそう)

建仁三年[癸亥]四月五日の夜寅時、上人(親鸞)夢想の告げましましき。かの『記』にいはく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命してのたまはく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」といへり。救世菩薩、善信にのたまはく、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。

そのとき善信夢のうちにありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、この文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとおぼえて、夢さめをはりぬと云々。

つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずるに、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかあれば聖人(親鸞)、後の時仰せられてのたまはく、「仏教むかし西天(印度)よりおこりて、経論いま東土(日本)に伝はる。これひとへに上宮太子(聖徳太子)の広徳、山よりもたかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇に、これをわたされしによりて、すなはち浄土の正依経論等このときに来至す。儲君(聖徳太子)もし厚恩を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。

そもそもまた大師聖人[源空]もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。これしかしながら聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案をかまへず、かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士に事ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かるがゆゑに上人親鸞、傍らに皇太子(聖徳太子)を崇めたまふ。けだしこれ仏法弘通のおほいなる恩を謝せんがためなり。

蓮位夢想(れんいむそう)

建長八年[丙辰]二月九日の夜寅の時、釈蓮位夢想の告げにいはく、聖徳太子、親鸞上人を礼したてまつりてのたまはく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」。しかれば祖師上人(親鸞)は、弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。